Erik Nanceの語る、プレイスタイルについて
2014年12月8日コメント (3) 少し前に、プレイスタイルとは何かみたいなネタがDNで話題になっていたので、ワンテンポ遅れて便乗してみます。
SixPrizesに上がっていた有料記事から無料部分の抜粋の形で翻訳したのですが、個人的にそこそこ共感できる内容だったので紹介してみます。
記事の筆者の言いたいことは、読めばすべて書かれています。
それに賛同するか違和感を覚えるかは、読んだ人が決めることなのでしょう。その意味では、ひさびさにTCGの記事らしい記事と言えるかもしれませんね。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
“Play It Out” -- In-Game Skill, Part 2: Thinking Strategically(部分訳)
by Erik Nance
Tuesday, November 11, 2014
ttp://sixprizes.com/2014/11/11/play-it-out-in-game-skill-part-2-thinking-strategically/
[中略]
■「プレイスタイル」なんて存在しない
我々プレイヤーが真っ先に変えるべきもののひとつは、戦略と比較したときに、プレイスタイルとは何なのか、という認識についてだ。長い間、僕はプレイスタイルというものがよくわかっていなかった。それが多少とも理解できたのは、ほかのプレイヤーが主流からは外れたアプローチで勝っているのを目にしたときだった。そういったやり方を指し示して、プレイスタイルとゲームの勝ち負けは関係しているんだと言うこともできるだろう。にもかかわらず、自分のプレイスタイルを言い表そうとすると、きまって僕は、自分が使っていて楽しいデッキに思い至る(スマートなギミックが入っていて、大量のアドバンテージが得られるようなTier2のデッキだ)。
だがこれは、少なくとも自分で理解している意味においては、プレイスタイルではない。たとえば、守りに主眼を置いた(あるいは、デカブツを立てることに主眼を置いた)デッキを使っている人がいたとして、この人のプレイスタイルはそういうものなんだと言い表すことがあるかもしれない。だが、それはプレイスタイルを本当に理解しているわけではない。それはデッキの特徴であって、必ずしもプレイヤーの特徴ではない。
5年ほど前、僕は、デッキ構築ゲームであるドミニオンを紹介してもらった。ドミニオンは独創的なゲームだ。プレイヤー全員が同じ手札からスタートし、目の前にセットされたカードを「購入」しなければならない。目の前に置かれる10枚のカードはゲームごとに変わるため、それぞれのゲームは異なったものとなる。それら10枚のカードは、ちょうどポケカにおけるサポーターのように作用する。プレイヤーたちは必要なカードを購入し、それらのカードは、ゲームが進むにつれて、自分のデッキの戦略を形作っていく。
ドミニオンではすべての対戦において、最善のプレイの流れが存在すると言う人がいるかもしれない。だが、プレイヤーは様々なカードを選べるため、最善のプレイはかなり見えにくくなる。たとえばこちらがドロー能力を得られるカードを買い始めたとしたら、対戦相手は、こちらの戦術を妨害するようなカードを買うだろう。僕がドミニオンに言及した理由はここにある。ドミニオンは、プレイスタイルというものが対戦中に作用している場合、プレイスタイルとはどのようなものかについての絶好の参考例に思えるのだ。たいていの人は、プレイスタイルについて話すとき、それがドミニオンにおけるプレイスタイルのようなものとして理解しているように思えてならない。その推測が正しいならば、僕はドミニオンをプレイするときなら、自分のプレイスタイルを明確に言い表せるはずだろう。実際その通りなのだが。
ドミニオンをプレイするとき、僕はいつも、ドロー能力を得られたり相手のそれを妨害するようなカードを買う。それから相手がやり始めたことに応じて、動きの方向性を変えたりする。僕は一緒にドミニオンをプレイした相手のプレイスタイルもたいてい言い表せる。僕の妻はたいていマネーカードを買い集めて、ゲーム後半で大量の買い物ができるようにしている(じっくり構えるようなプレイだとも言える)。兄は入り組んだ戦術を選んで、ほかの相手のやってくることに対処しようとする。幼い娘のナオミは対戦を手っ取り早く終わらせようと、テーブルをひっくり返したりカードをかじったりする(効き目は抜群だ)。
話をポケカに戻そう。ポケカにおいて、我々はみな、対戦に勝つためのアプローチを持っている。だがたいてい、プレイスタイルというものは、対戦に勝利する上で戦術的な選択肢を取っていくことだと考えられている。たとえば、ポケモンを捨てないようにアララギ博士を使わずとっておいて、打つべきときが来るのを待っているのが「じっくり構える」プレイである、といったふうに。あるいは、展開速度を上げてすぐ攻撃できるように、貴重なリソースをガンガン捨てていくプレイヤーは「アグレッシブ」だ、といったふうに。
この観点の何が問題なのだろうか? そもそもこの見方は、対戦中において、勝つために取りうる選択肢が複数存在している、という考えに立っている。だが待ってほしい。これは戦争ではない、ポケカなのだ。僕はポケカを愛しているがゆえに言うが、「プレイスタイル」と対戦中の戦略は、両立できないものなのだ。少なくとも、ほとんどの場合において。
プレイヤーがアララギ博士で貴重なカードを捨てるとき、いくつかのことが言える。もしかするとそれはアグレッシブなプレイで、それがそのプレイヤーの特徴なのかもしれない。あるいは、単に後々のことを考えてないだけなのかもしれない。ほかにプレイのしようがなかっただけという場合もある。だが、状況がどうであれ、たいてい、そこには最善のプレイというものが存在するのだ。
このように、ポケカは直線的なゲームだ。アグレッシブにプレイすべきか否か、そのメリットについて、うろうろ歩き回って哲学的な決断に迫られる必要はまったくない。こういった要素はほとんどの場合、対戦が始まる前には決まっている。ガマゲロゲEXを使っているなら妨害戦術に出ることはわかるし、闘デッキを使っていれば、打点を上げるカードを使って相手を殴りに行くだろう。
だとすれば、プレイスタイルとは何なのだろうか。そんなものは架空の存在なのだろうか? それとも、プレイの仕方について多少なりとも関係しているのだろうか?
この疑問についてかなり考えた結果、僕は、プレイスタイルというものはそもそも対戦中ではなく、対戦前に作用している、と思っている。確かに対戦中には、さまざまな選択肢を取ることができる。が、僕が強く感じるのは、そういった場合でも、最善のプレイはひとつしかない、ということだ。そして、そのようなプレイが存在するのなら、「スタイル」などは存在しない。そこにあるのは正しいプレイとミスプレイだけだ。もしも誰かが、実際はミスプレイかどうかなんて見方によるさ、などと言うとしたら、その言葉はプレイスキルの価値を馬鹿にしている。もしそうなら、Nでなくアララギを使って貴重なリソースを切ってしまうプレイヤーが「アグレッシブ」にプレイしていて、見捨てるべきでないポケモンを見捨ててしまうようなプレイが「じっくり構えている」ことになってしまう。
ではプレイスタイルが対戦前に作用するとすれば、それはどのような形においてだろうか? あるいは、どういった意味があるのだろうか? Russell Laparreのことを考えてみてほしい。今年初めのRegionalsで、フライゴンを使って2度トップ8に残ったプレイヤーだ。そしてまた、ここ最近の環境に登場してきたドンファンデッキの発案者でもある。その彼のプレイスタイルを表現しろと言われたら、彼は「壁」(ワザでベンチから目的に応じて別のポケモンを出せるような)のアイディアに基づいてメタ外デッキを作るプレイヤーだ、と言えるだろう。
ドンファンデッキを思いついたプレイヤーはほかにいるだろうか。もちろんいるだろう。だが僕が言いたいのは、フライゴンを壁として使っていたようなプレイヤーは、まず真っ先にドンファンを試すだろう、ということだ。そして彼のプレイのスタイルは、対戦中に起こることとは一切関係がない(たとえこのデッキ戦術についてほとんど知らない人が使ったとしても、同じようなプレイをするだろう)。彼のプレイのスタイルが作用しているのは、彼が大会に出発する前の段階においてなのだ。
これと同じ考え方は、ほかのプレイヤーにも多く当てはまる。Ross Cawthonは図抜けたプレイスキルの持ち主だが、主流から外れたメタ外デッキを使う。Jason Klaczynskiはデッキをひとつ選んだら、シーズン中ずっとそれを完璧に使い続ける。Ryan Sabelhausは主流のアーキタイプにちょっとした変更を加えて、わずかでも優位を得ようとする。そして実際に、周囲のプレイヤーを出し抜いてしまう。これらのケースでは、それぞれ対戦前のアプローチは異なっている。だが、変わらないこともある。これらのプレイヤーは全員、卓越したプレイスキルを持っているのだ。彼らのプレイにはほとんど間違いがない。
ここまで書いてきた中で僕が言いたかったのはこういうことだ。対戦中のプレイスタイルがポケカの大きな部分を占めている、という考え方は、どうにかしなければならない。端的に言ってしまえば、そんな考え方は間違っている。プレイヤーとしてそれを理解できたなら、「スタイルどおり」(それがどんな意味であれ)にプレイするのではなく、正しくプレイする、というほうに近づけるはずだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
以上になります。お読みいただきありがとうございました。
「でも正しいプレイを見つけるのが一番難しいですよね」なんて反応が来そうなので先に言っておくと、元の記事ではこのあと正解プレイを見つける方法に関して続きます(有料部分)。
もっとも、そんなことはどうでもいいと個人的には思います。正しいプレイの見つけ方なんて後々の問題であって(むしろそれこそ人それぞれの問題であって)、この記事の内容を消化しないと、そこに進んでも仕方ないからです。
余談ですが、記事を書いたErik Nanceは、ほぼ間違いなく、MtGプレイヤーのジョン・フィンケルの(有名な)言葉を踏まえています。
ジョン・フィンケルは正確無比なプレイングで知られたプレイヤーですが、彼はかつてウィザーズ社のインタビューに答えた中で、以下のように言っています。
「基本的に私は、悪いプレイ、良いプレイ、マシなプレイなど存在しないと考えている。そこにあるのは正しいプレイとミスプレイだけだ。人々は「なあ、こうやったんだけど、良いプレイだっただろ」などと言う。だが実際は違う。それは最善のプレイではないのだ。ゆえに、それがたとえ良いプレイに見えたとしても、あるいは結果的にゲームに勝てたとしても、それはミスプレイなのだ」
"Basically, I think there’s no such thing as a bad play, a good play, and a better play. There’s the right play, and then there’s the mistake. Like people say "Well, I did this, it was a good play", but it really wasn’t. It wasn’t the most correct play. So therefore, it was a mistake even if it looks good or ends up winning the game."
(元のインタビューはttp://www.wizards.com/default.asp?x=sideboard/feature/sb20011213bで読めます)
ぶっちゃけそのままですね。上の記事の内容がすべて語られています。
「自分のプレイスタイルは……」と言う前に、あるいはデッキを組む前に、ときにはこの言葉を思い出してみるのも良いかもしれません。
SixPrizesに上がっていた有料記事から無料部分の抜粋の形で翻訳したのですが、個人的にそこそこ共感できる内容だったので紹介してみます。
記事の筆者の言いたいことは、読めばすべて書かれています。
それに賛同するか違和感を覚えるかは、読んだ人が決めることなのでしょう。その意味では、ひさびさにTCGの記事らしい記事と言えるかもしれませんね。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
“Play It Out” -- In-Game Skill, Part 2: Thinking Strategically(部分訳)
by Erik Nance
Tuesday, November 11, 2014
ttp://sixprizes.com/2014/11/11/play-it-out-in-game-skill-part-2-thinking-strategically/
[中略]
■「プレイスタイル」なんて存在しない
我々プレイヤーが真っ先に変えるべきもののひとつは、戦略と比較したときに、プレイスタイルとは何なのか、という認識についてだ。長い間、僕はプレイスタイルというものがよくわかっていなかった。それが多少とも理解できたのは、ほかのプレイヤーが主流からは外れたアプローチで勝っているのを目にしたときだった。そういったやり方を指し示して、プレイスタイルとゲームの勝ち負けは関係しているんだと言うこともできるだろう。にもかかわらず、自分のプレイスタイルを言い表そうとすると、きまって僕は、自分が使っていて楽しいデッキに思い至る(スマートなギミックが入っていて、大量のアドバンテージが得られるようなTier2のデッキだ)。
だがこれは、少なくとも自分で理解している意味においては、プレイスタイルではない。たとえば、守りに主眼を置いた(あるいは、デカブツを立てることに主眼を置いた)デッキを使っている人がいたとして、この人のプレイスタイルはそういうものなんだと言い表すことがあるかもしれない。だが、それはプレイスタイルを本当に理解しているわけではない。それはデッキの特徴であって、必ずしもプレイヤーの特徴ではない。
5年ほど前、僕は、デッキ構築ゲームであるドミニオンを紹介してもらった。ドミニオンは独創的なゲームだ。プレイヤー全員が同じ手札からスタートし、目の前にセットされたカードを「購入」しなければならない。目の前に置かれる10枚のカードはゲームごとに変わるため、それぞれのゲームは異なったものとなる。それら10枚のカードは、ちょうどポケカにおけるサポーターのように作用する。プレイヤーたちは必要なカードを購入し、それらのカードは、ゲームが進むにつれて、自分のデッキの戦略を形作っていく。
ドミニオンではすべての対戦において、最善のプレイの流れが存在すると言う人がいるかもしれない。だが、プレイヤーは様々なカードを選べるため、最善のプレイはかなり見えにくくなる。たとえばこちらがドロー能力を得られるカードを買い始めたとしたら、対戦相手は、こちらの戦術を妨害するようなカードを買うだろう。僕がドミニオンに言及した理由はここにある。ドミニオンは、プレイスタイルというものが対戦中に作用している場合、プレイスタイルとはどのようなものかについての絶好の参考例に思えるのだ。たいていの人は、プレイスタイルについて話すとき、それがドミニオンにおけるプレイスタイルのようなものとして理解しているように思えてならない。その推測が正しいならば、僕はドミニオンをプレイするときなら、自分のプレイスタイルを明確に言い表せるはずだろう。実際その通りなのだが。
ドミニオンをプレイするとき、僕はいつも、ドロー能力を得られたり相手のそれを妨害するようなカードを買う。それから相手がやり始めたことに応じて、動きの方向性を変えたりする。僕は一緒にドミニオンをプレイした相手のプレイスタイルもたいてい言い表せる。僕の妻はたいていマネーカードを買い集めて、ゲーム後半で大量の買い物ができるようにしている(じっくり構えるようなプレイだとも言える)。兄は入り組んだ戦術を選んで、ほかの相手のやってくることに対処しようとする。幼い娘のナオミは対戦を手っ取り早く終わらせようと、テーブルをひっくり返したりカードをかじったりする(効き目は抜群だ)。
話をポケカに戻そう。ポケカにおいて、我々はみな、対戦に勝つためのアプローチを持っている。だがたいてい、プレイスタイルというものは、対戦に勝利する上で戦術的な選択肢を取っていくことだと考えられている。たとえば、ポケモンを捨てないようにアララギ博士を使わずとっておいて、打つべきときが来るのを待っているのが「じっくり構える」プレイである、といったふうに。あるいは、展開速度を上げてすぐ攻撃できるように、貴重なリソースをガンガン捨てていくプレイヤーは「アグレッシブ」だ、といったふうに。
この観点の何が問題なのだろうか? そもそもこの見方は、対戦中において、勝つために取りうる選択肢が複数存在している、という考えに立っている。だが待ってほしい。これは戦争ではない、ポケカなのだ。僕はポケカを愛しているがゆえに言うが、「プレイスタイル」と対戦中の戦略は、両立できないものなのだ。少なくとも、ほとんどの場合において。
プレイヤーがアララギ博士で貴重なカードを捨てるとき、いくつかのことが言える。もしかするとそれはアグレッシブなプレイで、それがそのプレイヤーの特徴なのかもしれない。あるいは、単に後々のことを考えてないだけなのかもしれない。ほかにプレイのしようがなかっただけという場合もある。だが、状況がどうであれ、たいてい、そこには最善のプレイというものが存在するのだ。
このように、ポケカは直線的なゲームだ。アグレッシブにプレイすべきか否か、そのメリットについて、うろうろ歩き回って哲学的な決断に迫られる必要はまったくない。こういった要素はほとんどの場合、対戦が始まる前には決まっている。ガマゲロゲEXを使っているなら妨害戦術に出ることはわかるし、闘デッキを使っていれば、打点を上げるカードを使って相手を殴りに行くだろう。
だとすれば、プレイスタイルとは何なのだろうか。そんなものは架空の存在なのだろうか? それとも、プレイの仕方について多少なりとも関係しているのだろうか?
この疑問についてかなり考えた結果、僕は、プレイスタイルというものはそもそも対戦中ではなく、対戦前に作用している、と思っている。確かに対戦中には、さまざまな選択肢を取ることができる。が、僕が強く感じるのは、そういった場合でも、最善のプレイはひとつしかない、ということだ。そして、そのようなプレイが存在するのなら、「スタイル」などは存在しない。そこにあるのは正しいプレイとミスプレイだけだ。もしも誰かが、実際はミスプレイかどうかなんて見方によるさ、などと言うとしたら、その言葉はプレイスキルの価値を馬鹿にしている。もしそうなら、Nでなくアララギを使って貴重なリソースを切ってしまうプレイヤーが「アグレッシブ」にプレイしていて、見捨てるべきでないポケモンを見捨ててしまうようなプレイが「じっくり構えている」ことになってしまう。
ではプレイスタイルが対戦前に作用するとすれば、それはどのような形においてだろうか? あるいは、どういった意味があるのだろうか? Russell Laparreのことを考えてみてほしい。今年初めのRegionalsで、フライゴンを使って2度トップ8に残ったプレイヤーだ。そしてまた、ここ最近の環境に登場してきたドンファンデッキの発案者でもある。その彼のプレイスタイルを表現しろと言われたら、彼は「壁」(ワザでベンチから目的に応じて別のポケモンを出せるような)のアイディアに基づいてメタ外デッキを作るプレイヤーだ、と言えるだろう。
ドンファンデッキを思いついたプレイヤーはほかにいるだろうか。もちろんいるだろう。だが僕が言いたいのは、フライゴンを壁として使っていたようなプレイヤーは、まず真っ先にドンファンを試すだろう、ということだ。そして彼のプレイのスタイルは、対戦中に起こることとは一切関係がない(たとえこのデッキ戦術についてほとんど知らない人が使ったとしても、同じようなプレイをするだろう)。彼のプレイのスタイルが作用しているのは、彼が大会に出発する前の段階においてなのだ。
これと同じ考え方は、ほかのプレイヤーにも多く当てはまる。Ross Cawthonは図抜けたプレイスキルの持ち主だが、主流から外れたメタ外デッキを使う。Jason Klaczynskiはデッキをひとつ選んだら、シーズン中ずっとそれを完璧に使い続ける。Ryan Sabelhausは主流のアーキタイプにちょっとした変更を加えて、わずかでも優位を得ようとする。そして実際に、周囲のプレイヤーを出し抜いてしまう。これらのケースでは、それぞれ対戦前のアプローチは異なっている。だが、変わらないこともある。これらのプレイヤーは全員、卓越したプレイスキルを持っているのだ。彼らのプレイにはほとんど間違いがない。
ここまで書いてきた中で僕が言いたかったのはこういうことだ。対戦中のプレイスタイルがポケカの大きな部分を占めている、という考え方は、どうにかしなければならない。端的に言ってしまえば、そんな考え方は間違っている。プレイヤーとしてそれを理解できたなら、「スタイルどおり」(それがどんな意味であれ)にプレイするのではなく、正しくプレイする、というほうに近づけるはずだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
以上になります。お読みいただきありがとうございました。
「でも正しいプレイを見つけるのが一番難しいですよね」なんて反応が来そうなので先に言っておくと、元の記事ではこのあと正解プレイを見つける方法に関して続きます(有料部分)。
もっとも、そんなことはどうでもいいと個人的には思います。正しいプレイの見つけ方なんて後々の問題であって(むしろそれこそ人それぞれの問題であって)、この記事の内容を消化しないと、そこに進んでも仕方ないからです。
余談ですが、記事を書いたErik Nanceは、ほぼ間違いなく、MtGプレイヤーのジョン・フィンケルの(有名な)言葉を踏まえています。
ジョン・フィンケルは正確無比なプレイングで知られたプレイヤーですが、彼はかつてウィザーズ社のインタビューに答えた中で、以下のように言っています。
「基本的に私は、悪いプレイ、良いプレイ、マシなプレイなど存在しないと考えている。そこにあるのは正しいプレイとミスプレイだけだ。人々は「なあ、こうやったんだけど、良いプレイだっただろ」などと言う。だが実際は違う。それは最善のプレイではないのだ。ゆえに、それがたとえ良いプレイに見えたとしても、あるいは結果的にゲームに勝てたとしても、それはミスプレイなのだ」
"Basically, I think there’s no such thing as a bad play, a good play, and a better play. There’s the right play, and then there’s the mistake. Like people say "Well, I did this, it was a good play", but it really wasn’t. It wasn’t the most correct play. So therefore, it was a mistake even if it looks good or ends up winning the game."
(元のインタビューはttp://www.wizards.com/default.asp?x=sideboard/feature/sb20011213bで読めます)
ぶっちゃけそのままですね。上の記事の内容がすべて語られています。
「自分のプレイスタイルは……」と言う前に、あるいはデッキを組む前に、ときにはこの言葉を思い出してみるのも良いかもしれません。
コメント
いつもながら、ありがとうございます。
仮に元ネタがあって内容が同じだとしても、MTGプレイヤー向けにMTGの言葉で書かれたものを、ポケカプレイヤー向けにポケカの言葉で翻訳するのは意味があることだと思います。
まして、今回の記事は追加意見もあるようですしなおさらですね。
この記事を題材に、私もひとつ書かせてもらいました。
ご報告まで。
まあおそらく、この人の意見を突き詰めれば、ポケカにおいてはプレイスタイルという語自体が必要なくなるとは思う(定義問題は別として)。
プレイスタイルが作用するのは対戦前の段階、と言ってはいるけれど、文脈的にはそれも「強いていえば」というニュアンスが強い印象だしね。
>>みれさん
ご紹介いただきありがとうございました。みれさんの記事も拝読させていただきました。
みれさんのお書きになっていたとおり、主張の出発点は変わらないと僕も思います。確かにプレイ中に、どちらも80点くらいに見える手が2つ浮かぶことはよくあります。
ただそれは、そういった状況が減るように絶えず構築にフィードバックされるべきではないか、あるいは仮に、自分の能力的に苦手な展開になりがちだとしたら、それもまた構築に反映させてデッキの側を変えていくべきではないか(もちろん、練習を積むのは前提として)、というのも、僕が記事から感じた部分ではあります。
余談ですが、記事の最後でパクりパクりと言っていますが、僕はこういった形でのパクり(あるいは何かを前提にする行為)が悪いとは微塵も思っていませんwむしろポケカの記事では過去記事からの引用等があまり多くない気もするので、もっと増えたらいいなとも思います。